うめきたから出てきた人骨が「大坂七墓」のひとつ梅田墓の痕跡ってどの口が言うとんねん
大阪は何で歴史的な場所をすぐに潰してしまうのか。梅田の再開発地区「うめきた」に「曽根崎心中」にも出てきた「梅田墓」の痕跡を示す人骨が出てきたそうだが、このニュース、歴史を破壊する大阪という土地をよく表している。
まずはこのニュースを見てもらいましょう。
https://mainichi.jp/articles/20170812/k00/00e/040/226000c
江戸から明治初期に流行した、お盆の時期に大坂の七つの墓を巡る「大坂七墓」。そのひとつ「梅田墓」の実体が今回の発掘作業で明らかになったとのこと。
「大坂七墓」は梅田の他に、南浜、葭原、蒲生、小橋、飛田、千日。
場所はいまの地図でいうと。
https://goo.gl/maps/dR4U9ajxWAugoo.gl
大坂七墓ができた経緯とその後
大坂の陣の戦後復興として、大坂三郷(当時の市街地)に点在していた墓地を郊外の七ヶ所に集約したのが始まり。祖先の供養と自分の極楽往生を願い、お盆の時期にこの七ヶ所を巡る「大坂七墓巡り」が流行。江戸後期には娯楽度も増えてさらに流行したが、明治維新後に廃止となり、お墓自体はさらに郊外へと統廃合して、次第にその面影を無くしていった。
墓地は昔も今も嫌われもの、郊外へと追いやられるものなんですね。それにしても七ヶ所の範囲が広すぎるけど、これを回ったんですね、昔の人は。しかも一部娯楽として。
そういう歴史的経緯はおいといて、このニュースを読んでちょっと気になる点があります。文面にある「面影を伝えるものは残っておらず」についてですが。
ではこちらのブログを見てもらいましょう。
梅田墓地・飛田墓地の跡のあと - 十三のいま昔を歩こう
そうです。「面影を伝えるものは残っておらず」どころか、一部残っていた梅田墓を開発のために、2010年に撤去、移転していたようなんです。
「大坂七墓」のひとつ飛田墓も更地になり、こちらは地蔵や無縁塔がどこへ行ったか分からない始末。
自分は大阪に在住の歴史好きにも関わらず、恥ずかしながらこの「大坂七墓」という習慣を知りませんでした。こうした痕跡を大事に残しておいてくれれば、もっと知る機会も増えたと思うんです。
そもそも日本は全体的に歴史的建造物に冷たい(一部地域を除く)ですが、特に大阪はその傾向が強いと思います。
ビックリするほどあっさりと、歴史的なものを破壊します。何かを忘れようとしているんでしょうか。
上のブログでも、他のページで千日前の竹林寺がいつの間にか移転していたことに触れてますし、難波の精華小学校も結局取り壊したし。
もっと、歴史、大切にしたいですね。